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第五話 記憶


 彼女は急いで彼から教わった場所を目指す。幸い、それはいつもの散歩コースの途中にあった。しかし、もう早く歩くことはできず、主人のリードに引っ張られている感じだった。
(早く、早くおしっこしたい)
 頭の中はおしっこのことで一杯だった。

 もうすぐその場所に到着する。
(あ、あと少し)
 その時、彼女に大きな尿意の波が襲いかかる。
(うぅ、お願い、出ないでぇ)
 後ろ足の間に力を込める。歩くスピードが落ちて、思わずその場に立ち止まりそうになる。主人がやや心配そうな顔で、こちらを振り返る。こんな姿を見られていると、顔に血が上り頬が熱くなってくる。
(恥ずかしいよぉ)
 なんとかごまかすために、頑張って主人の後に付いて行った。

 ようやくその場所にたどり着いた。
(よかった、どうにか間に合いそう)
 彼女は安堵の表情を浮かべ、最後の力を振り絞って、主人の前に出た。しかし、その場所の前に止まっている一つの巨大な物体に気が付いた。彼女は顔から血の気が引き、サッと主人の後ろに隠れた。
(あ、あれは……)
 悪夢のような、しかし主人と逢うきっかけを作った大切な体験。その巨大な物体は、あの時の車だった。尻尾を後ろ足の間に巻き込み、体をガクガクと震わせている。主人はそんな彼女の様子を見て、安心させようと声を掛けるが、彼女の耳には届かない。

 彼女が気付いた時、尻尾に細くて鋭い水流が当たる感触がしていた。
(うそっ。や、やだぁ)
 彼女はおしっこのことを思い出し、なんとかその水流を止めようと力を込める。
(でちゃう、でちゃうよぉ)
 しかし、その水流が止まることはなかった。

 狭い所から水が噴き出す高い音がかすかに聞え、噴き出た水は尻尾を伝って地面に落ち、アスファルトを変色させていく。彼女は諦めて全身に込めた力を緩め、水流の当たる尻尾を元の位置に戻す。やがて水の噴出は小川のせせらぎのように穏やかになり、地面を軽く叩く。足元に広がった水たまりが、肉球の間に入り込んでいく。
(……気持ち良い……)
 我慢に我慢を重ねたおしっこは、体全体に大きな開放感を呼んでいた。全てを出し切るまで、彼女は恍惚とした表情でその場に立ち止まっていた。


(加筆・修正 2011/01/23 21:30)